失敗から学ぶ
人は失敗から学ぶことが出来る。
なにかを経験をすることで、何かに気付くのだから、何かしらの経験が必要。
こういうことをするとダメだ、こういうやり方は上手くいかない。
自分で経験するか、他人の経験を学ばせてもらうか。
私は、施術をしながら多くの人の失敗例とか、上手くいかない理由に気付くことがある。
そして、それを記事にしてシェアすることで他の人にも気付いてもらおうとする。
でも、当事者が見るといい気がしないんですよね。
自分のことだと分かるように記事にされると、ネタにされているように感じる。
でも、個人が特定できない形であれば、他の人の気づきのために必要だと私は思ってたりする。
のだけど、人の気持ちを不快にさせてまで、発信してもいけないとも思う。
だから線引きが難しい。
その人が記事を見なくなっているくらいまで、寝かせてから書いたりもする。
私も多くの失敗をしてきた。
失敗から気づきがあって、今度は気をつけようと思う。
そして、忘れた頃にまた失敗をして、今度こそ気をつけようと思う。
で、また同じことを繰り返して、もうあきらめようと思ったりする。
人の長所と短所は紙一重なので、ダメな部分も、ひっくり返すと必要なことだと気付くこともある。
ダメだと思っているうちは短所だけど、これも個性と受け入れてしまえば強みになることも。
失敗から学ぶというのは、必ずしも克服ではないこともある。
「逆に」という思考は大事。
私は自分の意見を曲げない。
他人の意見に流されない。
説得されても、納得しなければ首を縦に振らない。
頑固だけど、「逆に」だからこその気付きもあるし、だからこその誠実につながることもある。
失敗から学ぶこともあるし、失敗を繰り返して受け入れることもある。
失敗を受け入れるとは、失敗を許すということであり、それは自分にも人にも優しくなることでもある。
他人に厳しい人は、自分にも厳しいから、それが他人にも向いてしまう。
自分にだけ厳しい人はある意味立派な人かもしれないけど、やりすぎると心を病んでしまったり、病気になったりしてしまう。
苦しい生き方をしていると病気になる。
苦しみの果てに自殺をするか、病死になるか。
苦しみ続けることは命を削ることになる。
私はそう思っているけど、そう思わない人もいる。
そう思わない人とは、価値観が違うわけで、宗教の違いのようなもの。
宗教の自由があるように、価値観の違いは無理に合わせなくてもいいと思っている。
自分が納得しなかったら価値観を変えないのだから、相手が変えなくてもしょうがないと思う。
自分が無理やり変えられたくないから、相手のことも無理に変えようとは思わない。
だけど、価値観が違いすぎると、施術も成り立たなかったりする。
整体というお店の場合、大事な価値観は健康観。
ある意味、健康観を売っている。
他の病院では、このままでは治らないという健康観を売られた。
でも、それは受け入れがたいから、筋肉のケアで良くなるという健康観を買いに来てもらったという事。
治らない、治りにくいと思われている症状を、実はちゃんとケアをすればちゃんと良くなると知ってもらいたい。
その為には、価値観を合わせる必要がある。
良くならないと思っている人に施術をしても良くならない。
人間と機械の違いは、心や思考があること。
機械なら、こうすればこうなるという一定の法則があるけど、人間はそうはならない。
思考が現実を作るのだから、思考や思想を合わせることが出来なければ同じ結果は出てこない。
経験や知識の差があるから、まったく同じにするのは難しいけど、私の言う価値観を飲み込もうとしてほしい。
分からなかったり疑問に思ったりしたら、質問をして理解をして飲み込んでほしいのです。
分かったふりをしても、ふりだと気持ち悪くて飲み込めなかったりするので、ちゃんと質問して欲しいのです。
自分の身体のこと、他人にどうにかしてもらうということは出来ないのです。
だから、自分で治ると信じられるように、思考の切り替えと、適切な身体への刺激が必要なのです。
でも、なかなか大変ですよね。
私が言っていることは、世間一般の常識と大分ズレている。
でも、多くの人が信じていることが正しい訳ではないと、私は声を大にして言いたい。