私が手首専門になった訳
カイロプラクティックに出会うまで
私は昭和57年8月2日、愛媛県松山市に誕生しました。
逆子で仮死産だったと聞きますので、随分心配を
かけたと思います。
その後元気にすくすくと成長し、小学生の頃は分かりやすい、わんぱく坊主だったと思います。
勉強はしないけど遊びと運動だけは最優先する、子供らしい子でした。
中学に入り、ソフトテニス部に入り、日々の鍛練に励みました。
高校でもソフトテニス部に入り、メキメキ
上達する中、悲劇は起こりました。
出窓に腰掛けて飛び降りる際、手をついたまま飛び降りて手首をねじってしまったのです。
それ以来手首の小指側に痛みが走るようになりました。
その後部活を続けるうちに、痛みは激しさを増し、ついにはボールペンを持って文字を書くことすら出来ないほどの痛みに変わっていきました。
病院を何件回っても、「腱鞘炎みたいなものでしょう」
「少し靭帯を伸ばしたのでしょう、安静にしていれば良くなります」
と言われて、湿布をもらうだけでした。
(後から分かることですが、この症状はTFCC損傷と呼ばれるものでした。)
整体にも行きましたが、良くなる兆しは見られませんでした。
安静にしていれば1~2週間もすると痛みはおさまります。
しかしその後、ラケットで球を打つとすぐに再発します。
見た目は問題ないのに、激痛で物が持てなくなるのです。
「サボってるんじゃないの?」と言われる度に、はらわたが煮えくりかえるような怒りが湧くのでした。
安静にしている間も、玉拾いをしたり、ランニングをしたり、筋トレをしたり、手首に負担の掛からないトレーニングは一度もサボらなかったからです。
安静と再発を繰り返し、3ヶ月ほど安静にしても、数日で再発しました。
そこで私の心は折れてしまい、部活を泣く泣く辞めることにしました。
痛めてから一年ほど、出口の見えない辛い日々でした。
その後高校を卒業した後は、一部上場の全国展開している機械のメンテナンスの仕事に就きました。
浜松、名古屋と勤めましたが、会社とお客さんの板挟みのストレスや、地元に戻りたいとの思いが強くなり退職を考えるようになっていました。
ある日仕事の移動中のエレベーターの中で、乗り合わせた赤ちゃんとお母さん。
赤ちゃんは私を見て、ニコニコと笑顔を見せてくれていましたが、うまく笑い返してあげることが出来ませんでした。
自分らしさを失いつつあることに気付き、4年間務めた会社を退職することに決めたのでした。
その後、新しく仕事をする際には、
①地元で働けること(転勤がないもの)
②納得のいかないものを人に勧める必要が無いもの
③人にやさしく出来るもの
④やりがいを感じるもの
を重要視して働きたいと思っていました。
初めは保育士や、カウンセラーになりたいと思っていたのですが、職業安定所の適正検査の結果にカイロプラクターという職が出てきたことから興味を持ち始めました。
保育士やカウンセラーになるための本を買いに立ち寄った書店で、私が卒業したカイロプラクティックの学校の学長が書いた本に出会ったのです。
【カイロプラクティックほど素敵な仕事は無い】です。
運命に導かれるように道はつながったのです。
私は地元に戻りたくて仕事を辞めたにも関わらず、勉強の為に東京に行くことを決めたのは、
「この先生の元で勉強をしないと意味がない。」
と思ったからです。
カイロプラクティックは日本では国家資格ではないので誰でも名乗ることのできる仕事です。
整体師、カイロプラクターは名乗るのは自由です。
知識や腕があるかどうかはその人次第です。
だからこそ、どこで学ぶか、信頼できる技術と知識か、誰から学ぶかをきちんと定めないと意味がないのです。
こうやって、私のカイロプラクターとしての人生は始まるのでした。
2006年春 カイロプラクターとしての一歩を踏み出しました。
なぜこの仕事を選んだのか
①地元で働けること(転勤がないもの)
②納得のいかないものを人に勧める必要が無いもの
③人にやさしく出来るもの
④やりがいを感じるもの
という私が仕事を辞めて、どんな仕事をしたいかと考えたものに、そのまま当てはまったのが第一です。
手先の器用さには自信があったし、興味のあることを追及することは私は苦になりません。
やればやるむほど、経験になって上達する世界は楽しみで仕方がなかったのです。
そして自分が追求したもので、弱ってる人、困ってる人を助けられるということが魅力的でした。
カイロプラクティックを選んだ理由
運命に導かれるように現れたからということもありますが、他の手技療法に比べて可能性を感じたからです。
国家資格があるのは医師以外にも、柔道整復師、鍼灸師、あん摩マッサージ指圧師などがあります。
しかし、国家資格になるものはさまざまな縛りも生まれるものです。
まず、基本的には医学をベースにするということです。
医学で良くならないものを良くしたいのに、医学をベースにすると結果は同じなのでは?という疑問も湧いていました。
私がカイロプラクティックを教わった大川先生は、従来のカイロプラクティックではなく、最新のカイロプラクティックを教えたいということを説明会などでも話していました。
古い常識にとらわれないで、最新の知識と情報を取り入れて、患者さんを快方に導いていく、ということに共鳴したというのが決断のきっかけです。
手首の症状に強くなった経緯
学校に通いながらクイックマッサージ店で腕を磨き、その後整体院に勤めました。
高校を卒業した後テニスをしなくなって、日常生活では手首の痛みはありませんでした。
ただ、手をつきながらねじりを入れるような交差押圧という学校で学んだ技術をすると手首の痛みが再現していました。
痛みは無くなっているけど、時々その気配を感じさせていたのです。
あるとき運動不足を不満に思い、何かやろうと考えました。
球技が好きなのですが、突き指をすると仕事が出来なくなります。
格闘技も好きですが、打撃は突き指不安、投げ締めなどは骨折や脱臼不安。
そうなるとわりと安全で楽しいのはラケット競技でした。
手首がまた痛くなるかもしれないけど、もし痛くなったら自分で施術するチャンス。
もし良くならなかったら、またやめたらいい。
そう思いながらラケット競技をすることにしたのです。
ダメ元でバドミントンを始めました。
(テニスは天候で出来なくなる&手首がやっぱり心配だった)
バドミントンも学生時代手首の痛みが出るのを認識していましたが、やはり痛みがぶり返しました。
学校で学んだトリガーポイントの復習をしていると、手首に関連するものがありました。
自分で試してみると効いているのが実感できました。
これはもしや!?
と思いながらバドミントンも続けながら手首のケアをすると、効かせ方もどんどん分かっていき効果も確信を持てるようになってきました。
数か月経ってもバドミントンを続けられている。
痛みがひどくなるどころか出なくなってきている。
自分が一番驚きました。
ずっと長く苦しめられたあの症状がまさか筋肉が原因だったとは。。。
その後ネットで症状を検索し、TFCC損傷という病名を知りました。
私の痛めていた場所と同じ。
痛む動きも同じ。
なかなか良くならない症状というのもまさに!
なるほど、今だと手首の小指側の三角繊維軟骨複合体の損傷だと考えられているのか!
と感心しました。
当時はそんな病名すらつかず、完全に病名迷子でしたから。
しかし、私は自分の手首を筋肉のケアで治したあとなので、筋肉のトリガーポイントが原因なのに、靭帯や軟骨の損傷と診立てられていれば、なかなか良くならないだろうなと納得しました。
そして、その頃勤め先の整体院のブログで、筋肉がTFCC損傷の本当の原因かもしれないということを書いてみたり、掲示板でも書いてみたりしました。
しかし、誰もそれに乗ってくることは無く、東京にいる間にTFCC損傷の人を見ることはありませんでした。
そして初めから地元に戻りたいという思いがあったため、地元開業を果たしたのでした。
手首の専門家になった理由
松山での開業は初めは苦労もしましたが、気が付けば6年間も続けることが出来ていました。
その間、ブログで手首小指側の症状が前腕の筋肉で良くなるという記事も書いていました。
次第に興味を持ってくれる人が増え、県外からの来院もみられるようになりました。
出張施術なども始めて、本当に多くの方に効果が出ることを実感していました。
松山の常連さんとのやりとりは私にとって、とても楽しく充実した時間になっていました。
でも、だんだんと手首の症状の患者さんへの施術の方が、より楽しくなってきました。
手首の症状は良くならないことで有名です。
手術をしても良くならない人も多く、スポーツ選手も手首の痛みで引退をしています。
その手首の痛みを自分は、激変させられる。
そして、その後スポーツに復帰して活躍する人も沢山見てきました。
「手首の症状に対して、こんなに結果を出せるようになったんだから、これをやるのが使命じゃないか?」
というような思いが浮かんできたのです。
自分はなぜ手首を痛めてスポーツを諦めたのか。
自分はなぜ今整体師をやっているのか。
自分だからこそできることって、これなんじゃないか、と。
そしてその頃、ブログでカウンセラーの心屋仁之助さんの記事を読んでいたところ、ちょうど私の背中を押す形のブログがアップされていたのです。
自分が本当に正しいと思うものがあるならば、
“狭いところでお山の大将を張っていてはいけない”
沢山の人を苦しめるには、上流から毒を流せばいい
沢山の人を幸せにするには、上流から素晴らしいものを流せばいい
と。
TFCC損傷は難しいとされているのに、本当は克服出来るものだと知っている。
それならそれを専門にやればいいんじゃないかと思ったのです。
ただ、松山という地で整体院をやっていたら、広めにくいと感じていました。
県外からも多数来られていましたが、東京の出張施術に比べるとはるかに少ないのです。
日本のみならず世界中に手首を痛めている人がいます。
少しでも多くの人が施術を受けられるようにするには、東京でやるのが一番だと考えました。
そして、ちゃんと克服するには、続けて施術を受けられる環境を用意しないといけないとも感じました。
「自分は手首の痛みを完全に克服した。
自分の経験が活かせるなら、あの時の自分の手首の痛みは意味があったんだ。
せっかく自分が見つけた手技療法だから、自分で広めていきたい。」
そう思い、松山のお店を閉じることにしました。
東京から始まった整体人生、たくさんの出会いと別れを繰り返してきました。
これまで関わっていただいた方への感謝を忘れることなく、これから出会う方の人生を取り戻すお手伝いをしていけたらと思います。
長くなってしまいましたが、ご覧いただき、ありがとうございました。