怪我は勲章?
ひざが痛いという人に声を掛けた。
少しは良くなってきてますか?と。
そしたら、こんな感じで返事をされた。
「もう俺の膝は医者に言わせるとボロボロで、よくそんな状態で運動できますね、って言われてるんだよ。」
って。
なんで少しうれしそうに話すのか。
ボロボロなのによく動けるね、と言われたことが少し誇らしげなのです。
子供の頃、突き指をするたびに、
「今回はさすがに折れたんじゃないか?」
って思って、病院に行くたびに折れてなくて、がっかりしてたことを思い出した。
子供の頃はケガをすることは男の勲章みたいな感覚があって、骨折に憧れてた。
腕を折って三角巾でつるしているのとか見ると、いいなと思っていた。
だから、自分の体が痛いときには、ボロボロだと言われたほうが、痛みを認められた気がするのではないかと思う。
「こんなに痛いんだから、何かあるはず」
と思うのに何もないと、痛みも大したことないと言われているように思えるのではないかと。
辛さを分かってほしいモードの時は、状態が悪いことを望む。
だからそんな人に、
「筋肉をケアしたら痛み良くなりますよ」
と言っても、
「筋肉で楽になる人もいるだろうけど、俺はもう軟骨がボロボロだから。」
と、筋肉のケアをやる気なんてないのです。
こうしてみたら?って言ってもやらない人は、実は治したくないこともある。
敗北を避けるために、時に人は自ら病気になる
「病気でなければ出来たのに…」
そう言い訳して安全地帯に逃げ込み、ラクをするのだ。
By アルフレッド・アドラー
怪我は作り出すというよりは、引き寄せて利用する、に近いのかもしれない。
病気もケガも痛みも作り出すことが出来るもの。
上手くできない言い訳にも出来る。
何かをやらない言い訳にも出来る。
何かをやめる言い訳にも出来る。
言い訳というと印象が悪いかもしれないけど、私はそうは思わない。
やめたいならやめたらいいと思うし、上を目指すばかりが全てじゃないと思う。
でも、痛い痛いって言って、治らないままずっと辛そうにしていると、見ている周りも辛いものがある。
そして、それを見ていると、
「あんなに辛そうにしているし、ある程度の年になると、もう治らないんだな。」
って、周りに印象を与えてしまうことがある。
治るものなのに治らないものだと周りに思わせるのが嫌だと思うと、声を掛けたくなる。
そして、声をかけても無駄だったと、無力感を感じるし、痛そうにしているのを見てるのも嫌なものだ。
どう接していいのか分からなくなる。