転ばぬ先の杖の考え方
先日のブログで、身体のゆがみの取り方の基本をお伝えしました。
左肩が高いからといって、左肩を上から押さえたらいいって話じゃないよと。
今回は、転ばぬ先の杖の考え方です。
転ばぬ先の杖は、転びそうな人が杖を用意することで、転ばずに済む、という対策の話です。
先を予測して、備えておきましょうという意味のことわざです。
杖をつくのは選択肢の一つです。
簡単で、安全な方法の一つですよね。
でも、本当はもっと他にもあるのです。
お年寄りは、加齢によって弱っていく。
ということなら、杖をつくのがいいとなるのですが、
お年寄りでも、行動次第では強くなる。
という視点に立つと、杖以外の選択肢が出てくるのです。
転ばないように、足腰を強くしよう。
とか、
転んでも大丈夫なように、受け身の練習をしよう←極端な例
とか。
杖をつくのは簡単な方法ですが、その先はどうなるのか。
杖をつくことで、歩行の安定感が得られる代わりに、自分の足だけでは歩けなくなっていきます。
なので、長期的な目で見ると、杖をつくのはその場しのぎなのです。
安易な対策は、本質的な対策から目をそらせてしまう。
きんさんぎんさんのきんさんは、一時期自分の足では歩けなくなっていた。
認知症も進んで1から10までの数字も言えなくなっていた。
でも、そんな状態でも、妹のぎんさんは歩けているのに、自分は歩けないのは悔しい!と筋力トレーニングに取り組んだのです。
その結果、認知症も改善し、足腰もしっかりして一人で歩けるようになったのです。
私が以前読んだ本、老筋力という本に書かれていました。
転びそうだから、杖を持たせる。
転びそうだから、一人で歩かないようにする。
ではなく、
転びそうだから、転ばないような足腰を作る。
という攻めの姿勢もあるのです。
守りの対策は一見、優しい対応に見えるけど、本質的には人を弱らせる。
足腰を鍛えるというのは、攻めの姿勢なので、本人のやる気がなければできません。
きんさんが筋トレに取り組んだのは、「ぎんさんに負けたくない」という思いがあったから。
普通100歳くらいになったら、比較できる対象はいないもの。
自分より元気なお年寄りが周りにいることなんてほとんどない。
だから、「もう年だから」と楽なほうに逃げられる。
でも、「楽」なほうに逃げたら、「楽しい」は無くなる。
コロナ禍はお年寄りを「守る」というスローガンで守りの対策ばかりやっています。
その結果、外出の減ったお年寄りの足腰が弱り、認知症が進み、要介護者が増えているのです。
高齢者施設では、面会が出来なくなっていたり。
守るという言葉で、人とのつながりを断ち切って、孤独に追いやっているのです。
ウイルスから逃げるばかりでは、人はウイルスに対して脆弱になるのです。
普段からウイルスに接触しているから、ウイルスに負けない強いからだが作られるのです。
転ばぬ先の杖
杖をつく、守りの姿勢をダメだと言ってるわけではありません。
本人の意欲がなければ筋トレなんかできません。
杖がなければ歩けないけど、杖をつけば歩けるのなら、杖をつけばいいのです。
でも、まだそこまで高齢じゃないなら、杖が無くても歩けるように、トレーニングをしてもいいのです。
その気があるなら、どんどん攻めの姿勢で強くなればいい。
年だからと、守りを強制するような社会では、人を弱らせる一方だ。
筋トレなんて面倒なこと、みんななかなか出来ない。
だから、楽しい外出をしていれば、歩けなくなるなんてことは予防できるのです。
自分を守りたい人は守ればいい。
攻めたい人はどんどん攻めればいい。
私は、もっと良くなりたい攻めたい人と相性がいい。
転ばぬ先の杖
よりも、もっと安全でもっと簡単な転ばない方法があります。
寝てればいいのです。
立ち上がらなければ転ぶことはない。
どうですか、寝たままでいれば転ばないのだから安全ですよ。
寝たままが幸せなら、それもいいのです。
でも、それじゃ嫌な人もいるでしょ?
リスクを避ければ、そういうことになるのです。
痛いなら動かさなければいい。
動かさなかったらその先どうなるのか。
その場しのぎも時には大事。
だけど、もっと先のことも考える必要もあるのです。