怒っちゃいけない
昔からいろんな自己啓発の本を読んできました。
怒りのコントロールのための本とか、色々。
最終的な、結論から言うと、怒るのは良くないという話。
なんだけど、時々、怒る必要もあるという話も聞くのです。
怒るというか、やり返すとか、断固嫌だと戦うという事。
人の気持ちは分からないから、相手が嫌がっていないと思っていたのに、実は嫌がっていて、どんどんストレスをためていたとか、避けられていたとかよくある話です。
ホントは、それをやられるのは嫌だと言えばいいのに、言えないとか、すごくやんわりとしか言えなくて、嫌がっていることが伝わっていないとか、もある。
この今の話だと、怒る必要というより伝える必要ですね。
先日バイクで走っているときに、すごく危ない追い抜きをされた。
無理やりすぐ横を抜いていくのです。
私はこんな時すぐ怒ります。
下手したら、喧嘩しようとするくらい。←しないけど。
でも、その時私は疲れてたので、そのままにしました。
追いかけて捕まえて文句の一言でも。
と思ったりしますが、そんなことをしてもしなくても、そんな頭のおかしな人と関わる必要が無いんですよね。
追い抜いて、ブレーキを掛けたり粘着されるのであれば何か対処が必要かもしれないけど、追い抜いて行ってそのまま去っていく場合、頭がおかしな人がいたな、だけでいいんですよね。
この世の中には頭のおかしな人もいる。
嫌だと思ってもいる。
そういう人をみんな消したいと思っても消えない。
注意したところで変わらないのであれば、不要なもめ事に巻き込まれないほうが大事。
わざわざ注意をしたりするのって、相手を更生させたいという欲だったりするんですよね。
それが身近な人だったりすると、その人がのちのち恥ずかしい思いをしないためになどと言う、
「あなたのために」
ということになる場合も。
そういう場合の、あなたのためにというのは8割くらい、自分の思い通りにコントロールしたいだけだったりしますよね。
自分の為に怒るのかどうかが大事ですよね。
あなたのためにと思ったときは、実は自分が相手をコントロールしたいだけなのではないか?と疑う。
自分が我慢すればいいって、自分の為に怒るのをやめようとしたとき、それは本当に自分の為になるのか疑う。
アドラーの教えで、課題の分離という考え方がある。
自分の課題と他人の課題がある。
自分の課題なのか、相手の課題なのか、共通の課題なのか。
課題というのは、問題を解決しようと思ったときに出てきます。
その問題の責任を誰がとるのかを考えた時、誰の課題なのか分かるのです。
例えば、先ほどのバイクの話で言えば、無理な追い越しをされて、命の危険に晒されるのは私です。
私の課題。
ですが、追い抜かれてしまえば、危険は去ったあとなのです。
そして、その人と今後関わることはおそらくないので、怒りに執着しなければ、追いかけて捕まえて説教する必要もないのです。
私は無理な追い越しをされないように、道の端っこを走らない。
端っこに寄っていると、抜きやすいから無理やり抜かれる。
そして、道の真ん中を走るからには、トロトロと、多くの人がストレスを感じるような速度では走らない。
こんな感じで私はちょくちょく内観・内省・対策します。
なんで?なんのために?どうして?
で、納得が出来るなら、怒りを収める。
で、納得がいかないなら、怒りを表現する。
理不尽なことをそのままにしておくのは、自分の為にならない。
時にはその怒りは、自分の為ではなく、広く世間一般、世の為人の為に怒ることもある。
自分だけ守れたらそれでいいやと、怒らないのであれば、いじめとか他人事だと思えば、スルーする人間になるのです。
虐げられるのはいつも弱者ばかり。
弱者は強者に怒っても勝てない。
負けることが無いと分かっているから、強者は弱者を虐げたり、いじめたりするのです。
それを助けに入ったり出来ないのであれば、男である意味が無いと思う。
男なんて、女性や子供を守るための兵隊みたいなもの。
用が済めば死を待つのみ。
怒るというのは時に勇気を奮い立たせるために必要。
問題は、のべつ幕なし怒ることがないように。
怒りすぎて、自分を焼き尽くしてしまわないように。
小出しにすることで、爆発しないように。
喧嘩って、時々やってないと、出来なくなるんですよね。
口喧嘩も肉弾戦も。
基本、怒るのは損。
出来るだけ怒らない。
でも、怒らないのと怒れないのは違うから、怒るときは怒る。
怒りにコントロールされずに、怒りをコントロールする。
長々書いたけど、色んな人が記事書いてますね。
例
「キレることの重要性」