利己的であれ
利己的というと、自分優先で人のことを考えない人のように思われがちです。
でも、果たしてそうなのでしょうか?
色々な人生経験を積んできている人は、言語化していなくても、なんとなく気付いている人も多いと思います。
情けは人のためならず。
人に情けをかけておくと、巡り巡って自分に返ってくる。
だから、人に優しくするのは自分の為なんだよ。
そんなことわざもあったりしますよね。
でも、私はそんなタイムラグのある見返りの話ですらないと思うのです。
人に優しくして、相手が喜んでくれる。
これが人の幸せの根源だと思います。
人は何のために生きるのか?
何をすると幸せになれるのか?
人生哲学のようなものですが、色々な人の書籍を読んだりしながら勉強をしてくると、共通して見えてくるものがある。
それが、幸せになるためには人に喜ばれること。
なんだそう。
天風哲学もそういうことだったし、アドラーの教えもそういうことでした。
物欲は満たしても満たしても、満足しないし、満足しないということは不満になるという事。
買うんじゃなかったなぁっていう後悔することも。
沢山手に入れても使いきれないし。
人を喜ばせて、良いことしたなぁといういい気分は、不満につながることが無い。
相手が求めていないことを、押し付けるようにしたらもめ事になったりするのだから、自己満足のやってあげた感はよろしくない。
でも、本当に相手の為を思って何かをしてあげた時には、いい気分になれるもの。
嘘偽りのない、幸せ感を感じられるのは、
「本当に相手の為になると思えることをやる」
「その結果、相手に喜んでもらえる」
というのが、真の幸せを実感できるのです。
自分が幸せになるために、利他をする。
押しつけの親切ではなく、相手が受け取りたい施しをする。
究極の利己は、良き利他を生む。
利他って、本当に難しいですよね。
なんでも施せばいいってものでもないし、何でもあげればいいってものでもない。
相手の人格を尊重しないといけないし、相手の能力を奪ってもいけないし。
与えすぎれば、相手の自尊心や生活能力を奪うことになるし。
だから、適度な距離感で、適度に施せるから、おじいちゃんおばあちゃんにとっての孫はかわいいんでしょうね。
孫に物を買ってやるおじいちゃんおばあちゃんは、喜んでる孫より幸せそうだったりする。
与える喜びというもの。
自分を犠牲にすることなく、世の為人の為に出来ることをやるのは、自分の生きがいの創出につながる。
自己犠牲の上で利他をすると、本当に苦しくなってしまう。
自発的ではなく求められるからと、人に何かを施したりしていると、気が付いたら搾取されてしまったりする。
だから、あくまでも自分を大事にしながら、人の意見は参考にはしても流されることなく、利己的であれば、利他に幸せのタネが眠っていると思う。
だから、あくまでも自発的でないといけない。
思いやりとか世のため人の為というのは、自発的にやらなきゃ意味がない。
人の為になると自分で思えるなら、不満は抱えない。
本当は必要ないと思うのに、世の為人の為だと思って我慢とかしているから、不満がたまって他人のやることにとやかく言いたくなる。
自分の生きる軸を持つことは大事。