才能は与えられているもの
才能のある人ってうらやましいですよね。
スポーツで活躍している人、美男美女でちやほやされている人、商才に優れた経営者。
自分が持っていないものを持っている人には憧れを抱いたりしやすい。
でも、そうやって人に憧れを持っている何もないように思う自分にも才能は与えられている。
最近、施術を受けてる人に言われたこと。
「島本さんのこの技術は、誰でも簡単に出来るものではないから、医学的に認められにくいのではないか?」
という話。
ここのツボを押せば治るとか、ここを何秒押せばいいとか、数値化出来るものではない。
だから、教科書に載せて誰でも出来るようにする、みたいなことは出来ないので、難しいと。
西洋医学であれば、検査をしてこの数値になれば〇〇病と診断する。
この病気であれば、これとこれを何錠を何日分薬として処方する。
というように一律の対応が出来るのであれば、誰でも出来るから組織化しやすい。
私の技術は、施術を受けた人なら分かるけど、やればいいわけではない。
効くようにしないと意味がないし、効かせるには沢山のコツがいる。
自己ケアは、自分で痛いとか痛くない、効いているとか効いていないと感じながらケアが出来るのに、それでも大変だと。
他人の身体であれば、もっと難しいと。
職人の技だと。
私は手がやたらと器用に動く。
指が細いわりに力がある。
運動神経が良いお陰で、自分の身体をわりと器用に自在に動かせる。
だから、動きから原因を推測するのが得意。
常識を疑う習慣がある。
理屈でものを考えるので、論理の破綻に気付きやすい。
これらが備わっているうえに、自分で手首を痛めていたから、この方法を編み出せた。
自分の散らばっていた、いくつかの才能と経験が実を結んだ。
運動神経が良いとは言え、一つの競技を極めていないから、どの競技もそれだけを見れば大したことない。
器用に動く手指も一つ一つ自慢したところで、だから何?程度のモノ。
全部がつながって、他の人に負けない技術が出来た。
みんな何かしらの才能を持っている。
それらが活きるかどうかは、自分の声に従っているかどうか。
なんとなく自分に合わないなぁっていう環境で、待遇が良いからとか、大企業だからとか、公務員だからとか、損得でその場に居続けたりしたら、才能が生かせる場所にたどり着くことはないのだと思う。
嫌だなとか、合わないなと思ったら、その場を離れる勇気も必要。
仕事でもプライベートでも、嫌だと思ったとき、そのまま我慢するのはよろしくない。
嫌だと思うことを、まず相手に伝える必要もある。
嫌だと伝えて、環境を変えることも出来ないなら、離れたほうがいいことも。
私がこの組織を離れたら、この組織が回らなくなる。
周りが迷惑をする、大変なことになる。
そう思ってみんなが我慢するから、組織が改善されない、ダメない会社が存続し続けることになる。
自分は我慢してその場に居るけど、本当はその場所を求めている人がいるかもしれないのに。
コツコツ地味な作業をするのが嫌いな人もいるけど、そういうのが好きな人もいる。
人とコミュニケーションを取るのが苦手な人もいれば得意な人もいる。
苦手の克服をするより、得意を活かす方が効率がいい。
私は高校を卒業して、すぐに就職をした。
東証一部上場企業だったけど、自分には合わないと思って4年で辞めた。
あのまま自分を押し殺して続けていたら、今の自分はない。
日本の教育制度は、苦手を克服させようと、均一な学生を作ろうとする。
とびぬけた知識はいらないから、まんべんなく出来るようにしようとする。
その結果、才能の芽は摘まれる。
日本の教育制度から、考えないといけない。
枠にハメて自分で思考しない、協調性を最優先した、均一の工業製品のような日本人を量産した。
今一度、常識や世間の目を疑って、自分らしく生きるように向き合ってみるのもいいと思う。
自分らしく生きることを許せると、他人が人と違うことをしていても許せるようになる。
日本人は、同調圧力が強すぎる。
みんなと一緒では、新しい発見はない。
みんなと一緒では、多くの才能は潰されてしまう。