沢山痛い目に合ってきたか
失敗を恐れて挑戦をしなければ、その先にあるものは手に入らない。
真実を追求しようと思えば、常識を疑わないことには始まらない。
通説を信じたまま、びっくりするような発見は起こらないでしょう。
私は素直なので、いろんなものを信じてきた。
人の冗談とかも素で受け止めて、随分馬鹿にされてきた。
騙されたり馬鹿にされたり、痛い目にあったりしたことで、疑うことを覚えたし、簡単には騙されなくなってきた。
何かと戦ったりしないと、戦った先のモノは手に入らない。
仕方がないよねと諦めたら、理想の世界はやってこない。
人に同じことを説明しても、その意味をちゃんと受け取れる人もいれば、浅い受け取り方しかできない人もいる。
人は誰でも出来るだけ楽をしたいもの。
解決の方法を伝えても、大変そうだなと思えば他の方法でどうにかしようとしたり、楽なやり方でどうにかしようとしたりする。
人は過去の経験によっていろんなものを学ぶ。
だから、伝わらなかったときには、
「この人はもう少し痛い思いをしないと気付かないんだろうな」
と思うようにしていたりする。
小さい子供は全てにおいて経験が無い。
だから、落ちてる食べ物を食べたりする。
土がついたものを食べると、口がじゃりじゃりする経験をして、落ちたものは食べないとか、洗って食べるということを覚える。
自転車で、段差を乗り越える際は、正面から乗り越えるようにしないと、斜めに乗り越えようとするとタイヤが持っていかれて転倒する。
こういうのも経験で覚えていくもの。
親が全部言葉で教えることが出来ない、経験させるしかないものがたくさんある。
親としては子供に怪我をさせたくないから、あれこれ手をかけたくなるのだろうけど、経験以上に大事なものはない。
だから、過保護に育てられるより、放任で育てられる方が、自立心が芽生えたり、タフに育ったりする。
なんでもバランスがあるから、完全放任でも良くないと思う。
車がバンバン走る道路の脇で、子供を放置しているのは危険極まりない。
でも、ある程度の怪我は体験させておいた方が、学習する。
整体でも、アドバイスが効く人もいれば、アドバイスは少ない方がいい人もいる。
同じ説明でピンと来る人もいれば、来ない人もいる。
今言っても分からないことも、時が来れば理解できることもあるでしょう。
私は良くも悪くも、治るかどうかはその人次第と割り切ってます。
私は、施術で良くなる兆しを体感してもらう役。
出来ることをする。
伝わったら良かったと思うし、伝わらなかったら、他の方法をどんどん試す。
色々試す中で来なくなれば、仕方が無いと諦める。
毎日その試行錯誤。
筋肉のケアで痛みは出なくなる。
でも、痛みが出るのもその人の生きた結果。
痛みが無くなってもいい状態なのか、痛みがまだなくなってはいけない状態なのかは分からない。
ガスの警報装置は、ガス漏れに気付いて、ガスを止めたら、警報機は鳴っている必要は無くなる。
でも、ガス漏れの原因が分からないのに、警報装置だけ止まったら余計に危険なだけ。
そんな時は止めても止めても、また警報が鳴るのでしょう。
無理してたことに気付く。
なのか、
もっと人に頼りなさい。
なのか、
やり方を変えなさい。
なのか、
のちのち活かされるためのきっかけ。
なのか、
道を変えるための布石なのか。
私が手首の小指側を痛めたのは、のちのち活かされるためのきっかけでした。
そして、サラリーマンをしていて仕事をやめることになりましたが、仕事をやめていなければ、今の仕事をすることもなかったことでしょう。
辛い思いをして仕事を辞めたのは、道を変えるための布石だった。
いろんな経験が活きて、今の仕事につながっている。
過去の怪我がなければ、こんな痛み取りの方法を編み出すことはなかった。
医療不信になるような経験があったから、医療の仕組んだ罠に引っ掛からずに済んだ。
今回騙された人は、今後騙されないための学びになったという事。
でも、騙されたと学ばなければ、また同じように騙される。
痛い思いをして学ばなければ、次はもっと痛い思いをする。
今多くの人がおかしな世の中に気付き始めている。
気付いたのなら、それを変えるべく動かないと、経験し学んだ意味はない。
知行合一。ちこうごういつ
知ったのに、知らなかったときと同じように過ごすのなら、知らないのと何も変わらない。
医療の常識を否定してでも発信しなければ、私が見つけた常識破りの技術はないことと同じ。
だから、黙らない。