子供の頃の好奇心を忘れない
子供の頃のことって、だんだん忘れていきますよね。
私はわりと覚えているほうだとは思いますが、それでもやっぱり大人になるにつれて忘れてしまっています。
子供の頃って、なんにでも、
「なんで?」
「○○って何?」
って聞くんですよね。
言葉を覚えて、見るものなんでも興味を持つから、相手をする親や祖父母は大変ですよね。
答えられないことだらけなのにびっくりします。
で、大人になると、分からないことを調べたり知ろうとすることが減っていきます。
仕事とか趣味とか、関心ごとが限定されて、それ以外のことは知らなくても恥ずかしくないから、無知を受け入れるようになるのです。
それ自体は悪いことではないと思うのですが、それは考えなくなるということでもあります。
理解する気が無ければ、知識も新たな知見も手に入らない。
日本人の教育は、さらに輪をかけて、思考しない人間に育てます。
教科書に書いていることを暗記する。
先生や上司の言うことをそのまま素直に実行する。
評価されるのがそういう生き方です。
それって変じゃない?
もっとこうじゃないですか?
そう言うことをすると、勉強に躓いてしまったり、上司からの評価を下げてしまったり、不利益を被ることが多い。
そうすると、自分で思考したり、改善しようとしたりしなくなるのです。
私は反骨精神の固まりみたいなところがあるので、思考する習慣が抜けません。
人から何かを言われても、自分で違和感を感じたら、そのまま鵜呑みにすることはありません。
だから、常識はずれな思考をすることがあるのです。
今のしまもと整体院の健康観、人生観、技術体系はその結果なのです。
医学の教科書にはこう書いてある。
でも、これをこう考えたらつじつまが合わない。
そう言う違和感をちょっとずつ解消した結果が、今の私の言動になっているのです。
腰痛や肩こりを、身体の歪みで説明したり、姿勢のせいにしたり。
私は、違和感を感じてしまったのです。
医療の常識である、画像診断の結果も、違和感を感じて調べた結果、医学自体が間違った考え方を修正していないだけだと知ったのです。
例え著名な専門家の言葉であっても、尊敬する師匠や先生の言葉であっても、おかしいなと思ったら、質問とかしてみたほうがいいんですよね。
ときどき、質問をすると激怒する人がいたりするのですが、質問をして激怒をするような人は、基本的に賢い人ではないし、誠実な人ではないのです。
怒らせたりすると、怒らせた自分が悪いと思ってしまう人も多いと思いますが、普通の質問で怒るのであれば、それは自信の無さの表れだったり、過ちを認められないプライドのせいだったりするのです。
子供の頃に、親を怒らせたり、先生を怒らせたりしても、私は考えることをやめなかった。
というより、やめられなかった。
これが一つの個性なのかなと思います。
天才と変態は紙一重と言います。
変わり者と天才も紙一重だと思います。
私は変わり者だと自任しています。
でも、自分と違う意見だとしても、議論をすることで新たな発見もあったりするので、基本的な議論は私は嫌いではありません。
これが正解だ!と決めてしまうとバツが悪くなることもあるかもしれませんが、決めていなければ、議論の結果、意見が変わることもあるのです。
普段私は、自分の頭の中で議論を戦わせています。
こう考えたら、こういう問題が起きる。
それはどう理解したらいいのか。
それを頭の中で繰り返すのか、他人を介して繰り返すかの違いなのです。
ちょっと哲学的かもしれないけど、これが子供の心を忘れないということでもあるのかなと思います。
こういうのを見て、ツッコむとか子供っぽいなと自分で思います。