人は幸せに生きる義務がある
整体の仕事をやりながら思ったことがある。
それは身体の痛みは身体からの悲鳴であること。
それが体の問題だけのこともあれば、身体には問題がないこともある。
一般的な整体で見ている、肩こりや腰痛の根本的な原因は生き方にあるというのが私の結論だった。
多くの整体師は、生活の中の原因を、姿勢やゆがみ、身体の使い方、靴などそういう体に関わる生活の部分に注目していた。
私は、それらはほとんど関係が無いと思った。
そして、本質的な原因は、その人らしい生き方が出来ていないことにあると思ったのです。
だから、嫌われる勇気という書籍が出て、それを読んだ時、これがみんなに伝わって、みんなの生き方が変われば、整体の仕事は激減するだろうなと思ったのです。
自分らしくない生き方を強要されれば、人は不調になる。
強要されなくても、こうあるべし、と思っていれば、自分で自分を縛ることになる。
人と違ってはいけない、お世話になった人に迷惑をかけたらいけない。
人の期待には応えないといけない。
そうやって、自分の意思より、他人の意思によって人生が作られていくと、身体に不調が出てくるのです。
自分の人生が、自分らしく生きられているか、本人にしか分からないのです。
コツコツと同じことを続けるのが好きな人もいれば苦痛な人もいる。
知らない人としゃべるのが好きな人もいれば、苦痛な人もいる。
クリエイティブさを求められて嬉しい人もいれば苦痛な人もいる。
運動大好きな人もいれば、出来れば避けたい人もいる。
個性があるのに、個性的であることを許さない、全体主義的な教育。
みんなと一緒はいいけど、みんなと違う意見は許さないとか。
多様性なんて言葉を使っておきながら、多様性を認めないことは許さないとか。
おかしいことをおかしいと言ってはいけない空気。
とにかく、生きづらい世の中になっているのです。
私は体調不良の大部分は生き方だと思っています。
痛みが出ることもあれば、眠れないなどの不調もあります。
食事などの偏りが原因のこともあるし、薬が原因のこともある。
でも、そういう食事の偏りだって、突き詰めて原因をたどると、生き方に問題があったり。
ストレスで偏食・飲酒をするとか、貧困により栄養失調とか。
自分らしい生き方で、人を幸せにすることが出来る。
私はそう思っています。
なんの役にも立たないような、自分を許せない気持ちになるかもしれないけど、役に立つことばかりが全てではない。
人は人の役に立てることが生きがいにつながる。
だから、人に生きがいを与える人間になれる可能性があるのです。
例えば、手足が不自由になって、自分で何も出来なくなっても、介護をしてくれる人にありがとうと伝えることで、介護の仕事をしている人は嬉しい気持ちになれる。
話すのが上手じゃない人は、人の話を聞くことが上手になれるかもしれない。
聞くのも苦痛なら、人と関わらずに黙々と働く場所で、役に立てる。
人と話さないと、ストレスが溜まる人だっているのだから、黙々と働けることだって適材適所になる。
みんなそれぞれの自分らしさがあるのだから、自分を幸せにするために、自分らしく生きないといけないのです。
自分らしく生きることで、他人も他人らしく生きていることにイライラしなくなる。
幸せに生きる権利ではなく義務だと思う。
自分らしく生きることをみんな不可能だと思ってたり、嫌われる勇気が無くて、我慢しながら生きている。
その我慢が、他人を攻撃する原動力になる。
自分だって本当は○○したいけど、△△してるのだから、あなたも△△しなさいよ。
この不幸な連鎖を止めるには、我慢をやめないといけない。
体育会系の部活とかで、先輩の言うことは絶対、後輩は言う事聞かないといけない。
そう言うのも、どこかの世代で歯止めをかけないと、脈々と引き継がれていくことになる。
いじめが無くならないのも、いじめている人間が不幸だからだったりする。
いじめているのを見て、ほとんどの人は見て見ぬふりをする。
私はこういう世の中が嫌なのです。
みんな仲良くみたいな言葉も大嫌い。
人は好き嫌いあるのだから、無理に仲良くする必要はない。
だからと言って喧嘩する必要もない、極力関わらないようにすればいい。
私は治りにくい怪我のケアは出来るけど、病的な痛みの対応は出来ない。
薬の影響で痛みが出ることを知らない人も多いし、食事が乱れている人もいる。
生き方から痛む人もいる。
一生このままですか?とか私に言われても私は神様じゃない。
私はお手伝いは出来ても、治すことは出来ない。
ましてや、その人の人生の責任など取る気はない。
今辛い思いをしているのなら、それを変えられるのはあなたしかいないのです。
変えられることは変える勇気を、変えられないことは受け入れる強さを。