嘘はつきたくない
小学生の頃、火遊びでボヤ騒ぎを起こしたことがあった。
道路に落ちていたライターを拾って、バッタに火をつけて遊んでいた。
火をつけられたバッタが必死に暴れて、脚を持っていたのがもげて、火のついた胴体で枯草に着地した。
秋の乾燥した空気と、乾燥した草っ原で瞬く間に炎は広がった。
必死に足で踏んで消そうとしたけど、抵抗もむなしくどんどん広がった。
怖くなって逃げだしたくなったけど、どうにかしなきゃとボヤの現場近くの友達の家のインターフォンを鳴らして、
「なんかあそこ燃えてます」
と第一発見者を装って助けを求めた。
周辺の人が集まって、消火活動をしたことで、どうにか鎮火した。
空地の原っぱが燃えただけで済んだ。
でも、もう少し広がったら、隣の家に広がっていたかもしれない。
ほっとしたのもつかの間、消防車がやってきた。
「誰だ?!消防車を呼ぶなんて卑怯だ!」
ことが大きくなったことに怖くなって、家に逃げ帰った。
でも、呼び戻された。
そりゃそうだ。
第一発見者なのだから、火災の状況を確認されるわけです。
「な、なんか、あっちの方にトラックが逃げていきました」
小学生にそれらしい嘘をつく能力など無く、とっさに出てきたのは犯人は逃げたという設定。
そうですか。
で済ましてくれるわけもなく、
どんな色で?どんな人が乗ってた?ほかに何か変わった様子は?
と色々と聞かれた。
嘘をついたら、その嘘の詳細を確認されるのです。
小学生の頭で必死に考えたって、そんな精度の高い嘘をつけるわけもなく。
消防士さん、近所の人に向かってこう言った。
「子供の火遊びに注意してください」
バレていた。
必死にドギマギしながら、嘘を重ねたのに、バレバレでした。
一度嘘をつくと、その後も何度も嘘をつかないといけない。
そんなトラウマもあって、嘘をつくのが苦手、嫌いなのです。
だから、結果的に、正直に生きるほうが楽に生きれるなと思うのです。
サラリーマンの時は、自分に正直に生きることも出来なかった。
それで自分を殺してたから、人生を楽しみきれなかった。
今は嘘をつく必要もなくなったから、自分の本音を押し殺す苦しさからは解放された。
でも、社会に蔓延する嘘や欺瞞との戦いで、けっこう疲弊する。
多くの人が信じて疑わないことを、否定するのは大変。
でも、大変だけど、そこに目をつぶって見て見ぬふりして生きるよりは、生きている実感がある。
結果はおのずとついてくる。