治らなくなる痛み
先日は、年のせいと言われる痛みについて持論を述べました。
ちょっとそれに似ている話です。
年のせいで痛い、という言い訳にする人がいるという話をしましたが、痛みは言い訳に使える。
痛みを理由にして、得をするというお話があります。
疾病利得という言葉があります。
例えば、交通事故で痛みを訴えていれば、慰謝料の増額が見込めるとか。
学校に行きたくない子供が、腹痛を訴えることで、学校を休むことが出来るとか。
試合に負けそうな選手が、痛みを表現することで、痛みが無ければ勝てたと言い訳にするとか。
普段は厳しい母親も、痛みを訴えると優しくしてくれたとか。
痛みがあることによって、利を得ることを疾病利得と言います。
これは存在するけれど、病院や整体等、痛みの相談を受ける側は、それを疑ってはいけない空気があります。
結局、疾病利得を疑うということは、痛みを疑うということに似ているから。
疾病利得は、痛いフリのこともあるし、実際に痛みを感じていることもある。
しかし、痛みを利用していると疑われることは、痛みに苦しんでいる人をとても傷つけます。
だから、基本的にはこの話は患者さんに面と向かってすることはありません。
しかし、この考え方は痛みで苦しむ人自身が知っておく必要があるのです。
例えば、交通事故でむち打ちの痛みに悩まされたとします。
その痛みの原因は、事故直後は物理的な筋肉の損傷だった可能性があります。
しかし、長い間痛み続ける場合、心理的なストレスから痛みが発せられる場合もあるのです。
加害者に対する、怒りや不満が痛みを作っていたり、増幅させていたりするのです。
人を許すのは相手のためではなく、自分の為。
という話があります。
恨み続けていると、その怒りで自分自身を不幸にするのです。
だから、痛みというものが良くならない場合、自分自身を振り返ることが必要なことがあるのです。
この、自分を振り返るという行為は、他人に指摘されると、怒りがわくので、他人から指摘出来ない問題だったりします。
この最近、私は疾病利得を疑う人を見ていません。
なので、このタイミングで書いています。
疑っている人が読む可能性があれば、書くべきではないと感じるから。
交通事故で痛みが続く場合に、どうして疾病利得になるのか?
慰謝料とかのやり取りが終わっていれば、もう痛みは得にならないのに。
この場合、相手を悪者として恨む為に痛みが必要なのです。
自分は被害者で、何も悪くないと思っている。
被害者意識は痛みを必要とするのです。
悲劇のヒロインになるには、不幸が必要。
自分がヒーローになるには、悪が必要。
痛みについて、自分自身を客観視することは、とても難しいこと。
だけど、どこに行っても治らない、ずっと苦しい痛みを解決するには、自分が変わるしかないこともある。
以前書いた記事はこんなものもあります。