意見の相違
人と自分は違う。
人はそれぞれ自分の考え方を持っている。
思想の自由がある。
良くも悪くも自分と他人は違うものです。
私は子供の頃から変わり者だったので、他人と自分との違いを意識することが多かった。
人と違うことによる、衝突も沢山経験したし、衝突ではなく一方的な押し付けにもあってきた。
こうしなさい、あぁしなさい。
学校では先生に強制されますよね。
家では父親という家長の支配があるので、言うことを聞かないと怖い目にあいます。
そうやって自分の意見を持っていても、他人の意見に合わせざるを得ない、自由意思を潰されることなんか日常茶飯事なのです。
そうやって生きているうちに、自分の意見というものを押し殺す習慣がついている人が多いですね。
仕事とか限られた環境では自分の意思・意見を押し殺すことも生きていく上では必要ですね。
でも、自分の意識を押し殺すのがたやすい人もいれば、たやすくない人もいるんですよね。
信念が強い人とも言うし、我が強いとも言うのでしょう。
その反対に人に流されやすいとか、人に合わせる能力があるとか言う人もいます。
流されるというと響きが悪いけど、人に合わせられることは時として大事。
でも、流されっぱなしだと、その人らしさがなくなる。
カメレオンみたいに、行く先々で言うことが変わったりしていたら、この人は何を考えているのだろう?と信用できなくなる。
で、今回ブログで何を言いたいかというと、意見が違ってもいいと思う。
だけど、施術を受けて痛みを克服したいのなら、私の意見に賛同して欲しいという事。
痛みを取るために、施術をすることはもちろんだけど、治るために必要なこと、考え方もあります。
それらの価値感を共有していないと良くなるものも良くならないのです。
私の施術は、関節の痛みは筋肉が上手く動けなくて痛みが出ていると考えています。
だから、動ける筋肉にするための施術と、動ける筋肉にするための生活をアドバイスします。
それなのに、筋肉が固まるような生活を送ったのでは、焼け石に水になるのです。
消火活動をしている隣で、火に油を注がれていては、鎮火は進まないですよね。
動かさないといけないのに、サポーターをつけ続けるとか。
筋肉の修復活動を進めたいのに、痛み止めを飲むとか、湿布を貼るとか。
筋肉をはがさないといけないのに、痛む動きはしないようにするとか。
治るために必要な環境をアドバイスは出来ますが、それを実行できるのは本人しかいないのです。
だから、価値観の共有が出来ない人は、施術を受けても良くならないよなぁと。
世間の常識を信じたまま、常識はずれの回復を求めるのは無理があるんですよね。
考え方が違う場合、私はその人に合わせたりはしません。
例えば骨がズレていて手首が痛いと思っていたとして、私は骨のズレが手首の痛みの原因だとは思いません。
ですので、骨の調整など出来ないのです。
骨のズレを治せば治ると思っているのなら、他所に行ってくださいというだけです。
その人の考えを尊重はするけど、私の考えは変えない。
ズレが原因だと思うのは自由だけど、それなら当院に来ないでくださいと言うことです。
どっちが正しいとやり合うと喧嘩になるので、宗教が違うんですよねと言うことで、関わらないようにする方がお互いの為です。
手術をしたら治ると思っているのなら、手術をしてくれる病院を探してくださいということです。
私は、私のやり方で救える人にアピールしたいだけなので、私は意見を変えないのです。
意見が違うなと思った人は、そっと立ち去ってもらえたらと思います。