みんな違ってみんないい
表題のタイトルは、金子みすゞさんの詩の一節です。
私は今125㏄のバイクに乗っています。
125㏄のバイクでも十分楽しいのですが、もう少し大きなバイクも欲しくなります。
こんなバイクいいな、あんなバイクいいな、とあれこれ考えるのは幸せな時間です。
それぞれのバイクにメリットデメリットがあるんですよね。
排気量の大きなバイクの方が、気持ちよく加速出来る。
〃が安定して走れる。
〃が長距離楽に走れる。
と思って大きなバイクに乗りたくなります。
が、小さいバイクには小さいバイクの良さがあります。
排気量の小さなバイクの方が、燃費がいい。
〃が動かすとき気軽に動かせる。
〃が狭い道でもどこでも行ける。
つまり小さいバイクのメリットは、大きいバイクのデメリット。
その逆も然り。
妥協点が人によって違うだけで、完璧なバイクはない。
でも、完璧ではなくても、最高のバイクはある。
私は高校生の頃の50㏄のバイクから、883㏄の外車までいろんなバイクに乗ってきました。
みんなそれぞれいいところはあったけど、自分の中の価値感は手にしてみて気付くものがありました。
私にとってのバイクは、自由の象徴だったのです。
自転車しか乗れない高校生の時に、友人の兄弟が乗っているバイクに乗らせてもらった経験。
あの体験が強烈なインパクトを与えました。
自分で頑張らなくても、スピードが出て、どこにでも行けるような錯覚を覚えました。
高校生の頃はバイクに乗ることは学校では許されていません。
こっそりとバイクの免許を取って、友人と遠くの街まで出かけて行った思い出があります。
ぱっと乗って、ぱっと走れる。
気軽さが私にとっては大事なのです。
883㏄のハーレーにも乗りましたが、軽いハーレーとは言え、やはりそれまでのバイクより明らかに重く、動かすことも億劫になりました。
バイクの駐輪場にバイクを止めても、誰かにぶつけられたり、傷つけられるのではないか?雨が降るんじゃないか?と思えば、気軽に出かけられなくなってしまったのです。
好きだからこそ、傷つけたくない。
その結果、乗り物としての魅力を無くしてしまったのです。
ただ、その価値観も自分を取り巻く環境が変われば、変ってしまうものです。
大金持ちになれば、傷つけても直せばいいだけになるわけです。
小さいバイクも大きいバイクも、それぞれ違ってそれぞれ良い。
人間も同じ。
あれこれ出来なくても、みんな違ってみんないい。
多様性が大事と言いながら、こうあるべしみたいな押し付けられる価値感には敏感でいたい。
メディアは専門家などを使って、価値観の押しつけをしてくる。
無知に付け込んで、全体主義を押し通してくる。
価値感の押しつけには断固抵抗していく。
人は自由だ!
昔見た映画を思い出す。
自由を守るためには戦わないといけない。