完治とは、めんどくさいとの戦い
痛みを克服する際、完治と言う言葉を考えるとなかなか大変です。
それは怪我を治すということが大変なのではなく、完治と言う状態を求め続けることが大変なのです。
完治と言うと、全く問題ないということなので、少し気になるというのは完治とは言えないのです。
例えば手首の痛みだと、普段はやらないような動作や負荷がかかった時少し痛いとする。
その場合、手首の痛みが無いとは言えない。
けれど、普段やらない動作なのだから、気にしなければ気にならない痛みと言うことになる。
その程度の痛みは許容するのも一つの正解。
今私は手首の痛みは完全に克服していますが、肩が少しだけ気になります。
背中の後ろで指を組もうとすると少し痛いのです。こんなやつ。
これ、左手が下になってますが、左右逆にすると右の肩が少し痛い。
でも、普段こんな姿勢やらないし、バドミントンも全く支障がないので、やらなければ忘れるような痛み。
痛みをゼロにしようと本気を出せばゼロに出来ると思うのですが、面倒なんですよね。
私は他にも開脚をして、ハイキックを蹴れるようになりたいのですが、ストレッチをするのが面倒で、毎日やらなきゃと思いながら出来ていないのです。
日常生活の動作が問題なくなったら、残りの痛みをゼロにしなくても困らなくなる人もいるのです。
ゼロを目指してほしいのは私のエゴで、患者さんが目指していなければ、無理強いは出来ないのです。
放っておいても問題ないものは放っておくのも一つの手。
気になるから取りたいのであれば、めんどくさい気持ちを乗り越えないといけないのです。
歳を取ったら、あちこち痛くなるから、このくらいいいかとなるのも分かる。
なので、完治を目指すのも良いし、完治でなくても、満足すればそれでも良い。
ただ、ある程度までは痛みが消えていないと、すぐにぶり返したりするから、どこまではやらないといけないか知る必要はあるんですよね。
まぁそれも経験して分かることだったりするので、何事も経験なのです。
億劫との戦いは、老いていけばいくほど沢山増える。
こだわりを捨てるともいえるし、ありのままを受け入れるというものにも近い。
ただ、私はきちんと完治は目指せると言いたい。
放っておいても勝手に良くなってくれなかった痛みだから、それがゼロに出来た私だから言いたいのです。