安心安全に全振りすることの愚かさ
私は高校生の頃からバイクが好きで、ずっと乗ってました。
東京に来る時一時的に手放したけど、東京でも維持出来そうだと思ってからはまた取り戻して乗っていました。
しかし、2015年頃、バイクでちょっと転倒してから、何かがあってからでは遅いと思いバイクを手放してしまいました。
その後、2020年6月にバイクを買いました。
コロナ禍で命は大事、危険は排除しましょうとさんざん煽られたから、安心安全のために自由を手放すことの愚かさに気付いたからです。
コロナ禍は人々から自由を奪った。
コロナ禍がと言うより、支配者層が、コロナ、いや医学を利用して、人々の心をコントロールしてしまった。
安心安全のために、人々は自由を奪われることを受け入れてしまった。
私にとってバイクは、自由の象徴だったんです。
高校生の時、初めてバイクに乗った時、「なんて自由なんだ」と思った。
羽が生えたかのように自由に移動できた。
その後車の免許も取って、車も手に入れた。
車も楽しいから好きだけど、バイクはまた違う楽しさがある。
ひらりひらりと自由に気軽に動けるのです。
しかし、安全性を考えたら、車の方がいい。
雨にも濡れない、物も沢山運べる。
でも、バイクの楽しさは車では得られないのです。
生きるということは、常にリスクを抱えているもの。
転ばぬ先の杖とかってことわざがあります。
転ぶリスクを無くしたければ、杖をつくよりも歩かなければいいのです。
車いすに乗ってしまえば転ぶことはない。
失敗をしないためには、チャレンジしなければいい。
誤嚥性肺炎を防ぐためには、口から食べ物を食べなければいい。
高齢者医療の実態は、安心安全に全振りしすぎて、家畜の管理のようになっているのです。
私はそんな人生まっぴらごめんだと思いました。
安心安全のために、何かを我慢することが、自分の人生をつまらなくしていることに気付いたのです。
死なないために生きることに何の価値があるのか。
人は死ぬまで生きている。
死なないために生きている時間は、生きているとは言えない。
人間は神様に生かされている。
いつ何時死んでもおかしくないのに、生きているということは、生かされているのです。
自分の命を受けて、やるべきことがあるから生きているのです。
時が来れば死ぬだけ。
みんな自分らしく生きるということをもっと真剣に考えて欲しい。