辛さを分かってもらいたいのはなんででしょうか?
人の痛み、辛さって、他人には分からないものですよね。
咳をしなければ、少し熱が出ていても、のどが痛くても風邪を引いていると分からなかったりします。
腰が痛いときなんかも、痛そうなそぶりをしなければ、痛いと気付かれません。
言わなきゃ分からないのに、なぜ言いたくなるのか。
自分でその気持ちに向き合ってみると、良い訳が欲しかったり、優しくしてもらいたかったりするんですよね。
ということは、優しくしてもらいたいだけなんだなと思えば、痛みを訴えなくても、他の形で優しくしてもらえたらいい訳です。
人は行動には原因があるという考えもありますが、アドラーの教えでは、行動は原因があるからではなく、目的があるというのです。
やさしくしてもらいたい、失敗を許してもらいたい、これ以上仕事を振らないで欲しい、などの理由があると、痛い辛いと言いたくなるのだと思います。
原因というより、目的なんですよね。
カッとなって怒鳴る人がいて、こういう原因があってついカッとなって怒鳴ってしまった、という人がいたとしても、それは原因があって怒鳴るのではなく、目的があって怒鳴っているんですよね。
ストレス発散したいとか、相手を支配的に扱いたいとかあるんです。
ついカッとなって、と言いますが、きちんと相手を選んでいるのです。
怒鳴る人は、相手がもしボブ・サップのような外見の人物だった場合にも、相手に怒鳴りつけるでしょうか?
おそらく怒鳴らないと思います。
相手が、反論できない立場の人間であったり、力が無さそうだったり、おとなしそうだったりするからそういう態度に出るのです。
話が反れましたが、相手に痛いとか辛いとか言っても、相手にはどうしようもないのに、それを伝えたいという場合、やはり、心配してもらいたいとか、労いの言葉、労りの言葉を掛けられたいという願いがあるのです。
あと、心配をすることは愛情だとか優しさだという考え方もありますが、そうではない考え方もあるのです。
例えば、お母さんが子供に、あれ持った?これ持った?などと心配するということがよくあります。
愛情だという人もいますが、これは「あなたはそそっかしいから」「あなたは失敗をするから」という、「あなたを信用出来ません」と言っているようなものなのです。
しっかりしている人に、大丈夫?とか言わないのです。
心配するんじゃなく、「あなたは大丈夫だと信じている」という姿勢を見せるほうが、子供にとっても自信につながるのです。
心配をされ続けた子は、自信を持てなくなってしまう。
だから、反抗期の時に思いっきり反抗されたりするのです。
子どもを心配するお母さんは、「子供に愛情を向けている」ように見せかけて、本当は「ダメな親」と思われることを避けようとしているのです。
とても厳しいことを書いているように思われるでしょうけれど、これらはアドラーの教えの話です。
嫌われる勇気という書籍があるように、アドラーは勇気を持てと教えてくれます。
他人の評価を気にせず、自分の評価で生きられるようになれば、いいカッコしなくて良くなり、自分らしく生きることが出来るようになるのです。
自分らしく生きるためには、他人の評価をはねのける勇気がいるのです。